映画「Fukushima 50」を観て
映画「Fukushima 50」を観ました。311東日本大震災の津波被害で危機的状況になった福島第一原子力発電所での懸命な姿に素直に感動して涙が止まりませんでした。
映画に対する賛否の声があります。
渡辺謙が演じる吉田昌郎所長は現場の最高責任者として対応しましたが、遡ること3年前(2008年)に想定を大きく上回る津波が来る評価がされたものの対策を講じない判断をした原子力設備管理部の部長が吉田氏で、吉田氏自らが未曾有の被害を招いたとし、責任を問う論調もあります。
東日本大震災から9年になる。あの日、牡鹿半島の東南東沖130キロ、深さ24キロを震源とするマグニチュード9.0の巨大地震に伴うおよそ15メートルの大津波が、東京電力福島第一原子力発電所を襲ったとき、吉田昌郎所長は強烈な後悔の念に襲われたはずだ。
「あのとき、もっと真剣に安全対策を検討しておくべきだった」
事態が悪化し、現場責任者として対応に追われるにつれて、自分の因果を恨んだに違いない。
(中略)
そこで見えてきたのは、事故収束に立ち向かう吉田所長の姿とは別に、やがて15メートルを超える大津波が襲来する可能性があることを知りながら、何もできなかった、あるいは手を尽くせなかった、もうひとつの顔だ。
実は、事故を起こす以前から、東電社内では福島第一原発の敷地内に15メートルの津波が到来するという具体的な予測データがあった。この予測数値を当時の経営陣にあげていたのが、ほかでもない吉田なのだ。
事実だとしても吉田所長に責任があるのでしょうか?
そもそも福島第一原子力発電所が存在しなければ事故を防げたと考えれば、着工を判断した方に責任があるのでしょうか?(1967年着工、1971年営業運転開始)
そもそも原子力発電を発明した方に責任があるのでしょうか?
原子力発電は日本の経済を支えるために必要不可欠だったとしても、原子力発電から再生エネルギーに早期転換しなかった判断をした人に責任があるのでしょうか?
あらゆる判断は世論によって左右されます。景気という言葉も“気”が含まれるように人々の気持ちに左右されるとも言えます。
魔女狩りのように責任の追及だけして他人事だと感じている方にも、責任の一端はあるのではないでしょうか?
つまり、あらゆることに対して、私たち一人ひとりに責任があるのだと突きつけられた映画「Fukushima 50」であり、その論評でした。
持続性ある未来社会の実現に向けて責任ある言動を取り続けていきます。