ジャイアント馬場と祖父と僕
僕の生き方に影響を与えた一人であるジャイアント馬場さん。ジャイアント馬場さんの全盛期を中心に描いた『1964年のジャイアント馬場』を読了。
ジャイアント馬場さんを好きになったのは、僕の祖父のおかげ。祖父がプロレス好きで一緒にプロレス番組を見ていた。そこで活躍していたのがジャイアント馬場さんだった。祖父とジャイアント馬場さんの雰囲気が似ていたのが好きになった理由。
僕が小学生の頃。当時のジャイアント馬場さんはスタンハンセンやブルーザーブロディたちと戦っていた。すでに全盛期を過ぎていた馬場さんは強豪外国人レスラーに劣勢だったが耐え続ける姿にかっこよさを感じた。
ジャイアント馬場さんの全日本プロレス。アントニオ猪木の新日本プロレスリング。小学校の同級生はタイガーマスクなども活躍していた新日本派が多かった。猪木が掲げる強さに僕は馴染まなかった。攻めている猪木より受けている馬場に心酔していた。
僕も身長が高いもののスポーツやケンカが苦手で当時の“男らしさ”の価値観と一定の距離感を置きたかったのだと思う。だからこそ、攻めの猪木でなく、受けの馬場さんに自分を投影していたのだとも思う。
祖父の面影がある馬場さん、攻撃的な男らしさの価値観と一定の距離感を保ちたかった僕。だからこそ馬場さんが好きになった。同時に馬場さんにはスケールの大きさを感じていた。世界を知っているからこそ、猪木の挑発にも乗らない姿勢や存在感。
小学生の時に感じていたジャイアント馬場さんの偉大さを実感できた『1964年のジャイアント馬場』。馬場さんの全盛期の1964年当時。小学生(10歳)の僕がプロレスを見ていたのは1982年頃。全盛期の1964年からすでに20年近くが経過。
全盛期を過ぎていた馬場さんがPWF王座の奪還に向けてスタンハンセンに挑んでスモールパッケージホールドで勝った試合は涙が出た。解説者も馬場さんが一発技を受けるだけで「馬場、ピンチです」と叫ぶくらい衰えていた。そして逆転のスモールパッケージホールドでの勝利。
1999年に亡くなるまで大好きだったジャイアント馬場さん。馬場さんが亡くなり、数年後に大好きだった祖父も亡くなった。
元々は『1964年のジャイアント馬場』の感想を書くつもりだったけど、書きながら祖父を思い出すことに。僕を形成したのは祖父だったんだと気づく。馬場さんを通じて祖父を投影していたんだと。祖父と馬場さんの共通点。笑顔、優しさ、受容性。笑顔で大きく受け止める優しさ。
そんな祖父の背中を見て育った僕。祖父のように、笑顔で大きく受け止める優しさある人になりたいし、人でありたい。